栃は橡にして橡は栃にあらず

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昨年、「栃」の読み方というエントリを上げましたが、その続きです。といっても別に前のエントリをお読みいただく必要はありません。前回のエントリをアップした後、しばらくして「栃」の中国語音は それとも xiàng(東方2011年8月号)を読みました。ただ、読み終わってもすっきりしませんでした。結局、と読むのかxiàngと読むのか、はっきりとした結論が書いてなかったためです。

この記事の中で筆者の千島氏は、学生時代の先生が「栃は中国語でどのように発音するのか」という質問に、「栃」の本字は「橡」なので「xiàng」と発音する、と答えていたエピソードを紹介していますが、はたして「橡」は「栃」の本字なんでしょうか*1。この記事の中で紹介されている「日本の漢字 (中田祝夫・林史典)」を私も読みましたが、「栃」は明治の官僚が作り出した漢字とされています(下記引用参照)。

「栃」の起源は中央政府の太政官から地方県庁に与えた公印に「栃」とあったのが、この文字の最初であったといえる。無学な一下僚の作った誤った公印から「栃」の字が出たということになる。では、早くから「杤」が定着しているのに、なぜこれに余分な筆画を加えたのであろうか。これについて、わたしは次のように推理する。
 中央政府の官僚のその際に責任のあった者が「栃」の字を作ったのであろうが、その官僚は、「」(『書言字考節用集』に見える「とち」の字の一つ。『書言字考』は権威ある辞書として、江戸時代に盛行した)を知っていて、これが和字ではなくて正式の漢字であると判断し、かつ、漢学趣味からこの方に心を引かれ、次にその簡略字体に思い到ったのではないか。わたしの想像だが、
 (一)彼は「杤」字の日本的伝統についての知識がなく、これは中国の辞書にないから好ましくないと考えた。
 (二)彼は中国の辞書にある「」--「とち」の字の一つ--を簡略にするならば、当然「栃」になると考えた。なぜなら旁(つくり)の「厲」の一部分の「萬」を「万」と簡易にするならば、「」は当然「厂」の筆画を保存して「栃」となるべきで、「杤」は簡易化の方法を誤っている、と見た。

日本の漢字(P155~P158)より

「栃」の成立についての中田氏のこの推理は、理路整然としていてなるほどとうなずかされます。この説をとるのであれば、「栃」と「橡」に同じ音をあてるのは難しいように思います。官僚が安易に造字したことの是非は置くとして、「栃」が「」から生まれたのであれば、その読みを「」とする方が理にかなっているのではないでしょうか。

そうは言っても「栃木」は「橡木」と書かれていたこともあるし、「xiàng」の方が「トチ」の意味に合っているのではないか、という意見もあると思いますが、前回のエントリでも書いたように、中国語の「橡(および櫟、柞)」は「クヌギ(またはコナラ)」であり、日本のトチとは別の植物です。日本語で「トチ」を「橡」で表したのは日本的用法というか当て字であって、中国の「クヌギ」と同じ木を指している訳ではありません。「栃」に「橡」の発音を当てはめるのは、サクラを指しながらウメといっているような居心地の悪さがあります。

それなら「」は「トチ」と同じ植物なのかと言われると、それもどうやら違うようで、はたと困ってしまいます。康煕字典には「木名。實如栗。」とあり、トチの実も栗に似てるよなあ、とは思うのですが、「」がいったいどういう木なのか、それ以上の手がかりがなく、両者をつなぐ糸は見つかりません。*2

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「栃」という漢字の成り立ち、日本と中国の「橡」の意味の違いを考え合わせると、「」という発音にはそれなりの説得力はあると思いますが、これで決まり!とは言い切れない歯がゆさがあります。東方の記事が結論を書いていないのも、こういう背景があるからなのかもしれません。

中田氏も書いているように「栃」という漢字をひねり出すのではなく、もともと地元で使われていた「杤」の字を採用し、その音を「マン」と定めていればどんなにスッキリしただろう、それなら「wàn」で一件落着なのに、と思う次第です。

最後に、結論ではありませんが、私の最終的な見解としては、やはり「栃」の字の成り立ちから「」の方が好ましいと考えます。ですので、北辞郎の「」の記述もこの考えに基づいたものになっています。

蛇足:「鮎」も日本と中国で意味が違いますよね。こういう漢字、いくつあるんでしょう。

  1. 字統は「橡」を本字としていますが、学研の漢字源では「『とち』は『橡』とも書く」とし、角川の新字源は「中国の橡(しょう)にあたる」としているものの本字とはしていません。 []
  2. 和製漢字の辞典:巻9(764~939)によれば、大系漢字明解に「は木の名なり。實は栗の如しと。是れトチなり。」とあるそうです。 []

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