翻訳とミス

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先日車を運転していると、前の車の後部座席に何か動物がいた。助手席にいた妻と「犬かな、おとなしいね」と話していたのだが、犬にしては輪郭が変だ。大きなマトリョーシカのような輪郭をしている。「あれ、鳥の剥製かな?フクロウの人形?」といった瞬間、その物体がキュイっと横を向いた。「え?」私たちは顔を見合わせる。まさか車にフクロウが乗っているわけがない。赤信号で前の車のすぐ後ろにつけ、物体Xに目をこらす。はてさて、犬ではないとして、あのカクカクとした鳥のような動きはなんだ。置物か良くできたオモチャか……。またこちらを向いた。ぬ、間違いない。こちらを見ているのはやはりフクロウである。

Burrowing Owl

なぜこんなことを書いたのかというと、前の車に乗っているのがどうやらフクロウのようだ、と 私たちは 当初から気づいていたのに、「そんなわけはない」と正解をわざわざ何度も否定しており、その一連の思考の流れに既視感を覚えたからである。翻訳や校正をしていると同じようなことがよくある。

原文を素直に読めばそんな風に読めるわけがないのに、原文に含まれている単語を寄せ集めてそれっぽい訳文を作り上げる。前後の文脈から浮いているわけではないので、さらっと流してしまいそうになるが、しばらくほかの部分を読んでいるとやはり何かおかしい。 原文を再確認すると全然違うことが書いてある。私もよくやるし、他人の訳文をチェックしていてもよく見かけるので、これは誰でもやらかすことなのだろう。私たちは自分の読みたいように原文を読み、自分の訳したいように訳す。

これを防ぐ妙案は残念ながらないと思う。虚心に原文に向き合い、予断を持たずに訳出する、というのは意外に難しい。だからこそ翻訳の校正という仕事があるのだろう。第三者の目で訳文を見直すというのは実に大切なのだ。

The Thinker

一方、防ごうと思えばきちんと防げるミスもある。校正をしていると「これは気をつければ防げるはず」というミスを実にたくさん目にする。

まず、これを見かけたら私が警戒レベルを大きく引き上げるミスを紹介しよう。それは「開き括弧と閉じ括弧が全角だったり半角だったりしてバラバラになっている」である。たとえば「ABC公司(以下、甲という)とDEF株式会社(以下、乙という)は、信義誠実の原則に云々」のような感じである。ぱっと見では分かりにくいかもしれないが、括弧の縦方向の位置がずれているし、フォントによっては半角の方だけアンチエイリアスがかかるので慣れればすぐに見つけられる。

細かいねえ、そんなのどうでもいいじゃない、訳文の意味に違いはないし、と思った人は、翻訳者に向いていない。経験則からいって、これをやる人は以下のミスも必ずやる。

  1. 及び、およびなど接続詞が漢字だったり、ひらがなだったりして統一されていない
  2. 漢数字とアラビア数字が混ざっている
  3. コンピューターとコンピュータのように長音の処理が統一されていない

この手のミスは、原文が分からなくても指摘できるのでクライアントからすぐにクレームが入る。最初につぶさなければいけないミスなのだ。幸い、Just Right!というツールを使えば、これらのミスは確実につぶすことができる。それなりの値段はするが、ミスをやらかして仕事が来なくなることを考えれば安い。最近の一太郎にも同等の機能が搭載されているので、安く手に入れたい向きはこちらを選択しても良いだろう。1

次に気をつけるべきミスは、固有名詞の間違い、商標の不適切使用、不快語の使用である。固有名詞、特に社名の間違いは致命的なミスである。たとえばクライアントの中国現地法人がある場合、クライアントのホームページを見れば正式な中国語の会社名がまず確実に掲載されている。それをろくに調べもせず、ABC社をABC公司と訳出したりするとクレームが入る。当たり前である。失礼にもほどがあるので、そのクライアントから次の仕事が入ることはないだろう。

商標については、セロテープやウォークマンなど登録商標を訳語に採用せず、セロハンテープやヘッドホンステレオなど一般名詞に直す。これはMSワードで商標・商品名をチェックする機能を使えば簡単にチェックできる。忘れずに設定しておこう。

商標を知らず知らず使ってしまっても怒り狂うクライアントはいないと思うが(冷静にミスを指摘されるのも心臓に悪いが)不快語は別だ。土方や百姓、アル中のように会話で日常的に使っている言葉も仕事では使えない。特に中国語の翻訳の場合、「文盲」のように原文をそのまま訳語に採用してしまいそうになることがあるので注意が必要だ。なお、こうした不快用語についても先ほど紹介したJust Right!が使えるが、ATOK用の追加辞書に共同通信の記者ハンドブックがあり、これを導入すると不快語を入力した際に指摘してくれるし、適切な言い換え例も示してくるのでたいへん便利だ。ただ、この記者ハンドブックだけでは不快語に関しては物足りないかもしれないので、書き屋のための変換辞書 for ATOKで公開されている各種辞書(充実した内容ですばらしい)もあわせて導入すると良いだろう。2

関連:Amazon.co.jp: 共同通信社 記者ハンドブック辞書 第12版 for ATOK DL版

中国語の翻訳ならではの問題もある。原文ファイルをそのまま上書きしていくいわゆる上書き翻訳で、読点の「,」がそのまま残っていたり、日本語では用いない「;:!?」をそのまま使っていたりする訳文を見かけることがあるが、訳文の納品に先立って検索をかければ簡単にチェックできるミスである。句読点だけでなく、書名号やダブルクォートのような括弧についても適宜処理しなければならない。MSワードなら以下のようにワイルドカードを使って検索すると良いだろう。

MSワードでワールドカードを使用して検索

上書き翻訳では、中国語の漢字がそのまま残っているケースもよくある。たとえば繁体字の原文に「調查」とあった場合、「調査」に直さなければならないのだが、パッと見ただけではなかなか見分けがつかず、そのままになっている訳文をたまに見かける。印刷するとフォントがおかしなことになるのでよく分かるが、これを見逃さないためには漢字変換などのツールを使って漢字を一括置換するか、Just Right!を導入することをおすすめしたい。Just Right!は特殊な漢字を使っているとそれも指摘してくれるのである。

最後に、これは簡単に防ぐ方法がないため、別にエントリを立てるべきかもしれないが、上書き翻訳に起因するミスなので触れておこう。先ほどの「文盲」のように原文に含まれている単語をそのまま訳語に採用するミスである。訳文に不快語や日本語以外の漢字(簡体字や繁体字)が含まれている場合は、Just Right!でチェックすることができるが、「高校」など日本語と見た目は同じでも意味が異なる単語や「敏感」のように微妙に意味が異なる単語は、そのまま訳語に採用するとおかしな訳文が出来上がる。訳文をアウトプットする前にこうした単語が含まれていないか、ひと呼吸おいて確認すると良いだろう。

以上、防ごうと思えば防げるケアレスミスについて私なりに対策をまとめた。長くなったが、念のために断っておくと上に書いたことは翻訳の基本、初歩の初歩である。こういうミスは機械に任せ、人間である翻訳者は人間にしかできない方面でもう少しがんばらなければならない。

  1. ATOKも入手できるのでお買い得だと思う。 []
  2. と書いておいてなんだが、「文盲」はどのツールにも収載されていないので自分で登録しておく必要がある。 []

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