本:太極拳が教えてくれた人生の宝物

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先日、フランソワ・デュボワの太極拳が教えてくれた人生の宝物~中国・武当山90日間修行の記を読みました。著者が湖北省の武当山で八卦掌の修行をした日々を記した本です。この本の最後の方に自分というものについて次のような下りがありました。

 人間は水の入ったペットボトルのようなものだ。水そのものは、違う器に移せば丸くも四角くもなる。水そのものに形はない。これが僕らの本質だ。魂といってもいい。けれども僕らのエゴは、中身の水ではなく、外側の容器のほうを自分だと思い込んでいる。ボトルの形が自分の形だと思い、貼ってあるラベルに書かれた内容が、自分自身だと錯覚している。
 たしかにラベルには、住所氏名や国籍、所属、肩書きなど、いろいろな情報が書かれている。また、ボトルには、きれいだとか、かわいいとか、背が高い、太っている、痩せているなどといった、その人のもののように見える特徴が表れている。でも、それはその人自身ではない。それはボトルの属性であって、中身そのものではない。
 修行の意味のひとつは、このラベルやボトルの形が、自分そのものではないということを気づかせることにある。まずラベルを剥がして捨て、本体である中身と自分という意識が、ひとつのものとして動くようにすることにある。

人間というのは、ここでいうボトルを通して自分というものを保っているところがあると思うので、それを取り去って中身だけの自分を見つめられるほど強くなれるのか、個人的にはちょっと怖い気もしますが、書いてある内容にはなるほどとうなづかされました。

水というのは淀むと腐ります。なんとなく日常を繰り返す、昨日と同じように過ごし、なんとなく居心地のいい惰性に身を任せる。努力の積み重ねと惰性の繰り返しというのは見分けるのが難しく、特に自分のこととなると人間は甘くなるので、ルーチンを片付けているだけで何かやったような気になってしまいます。

著者のデュボワ氏は、日本での多忙な日常をリセットして3か月間の武術修行のため山にこもりますが、自分にこの決断ができるか、積み上げてきたものを崩して自分を厳しい環境に置くことができるか考えて、しばらくひとりで唸りました。著者が45歳の時の話なのです。今の自分と大して違わない。

それにしても、かつて「四十にして惑わず」と曰った人がいますが、あれ、実に迷惑な話ですね。自分みたいな凡人は四十を過ぎても迷い惑って五里霧中なわけでして、なんとなく分別くさい顔をしなければいけないのがとても窮屈です。いいじゃないですかねえ、いくつになってもスクラップ・アンド・ビルドで。それもひとつのあり方だと思うのですが。

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